
【知道中国 1352回】 一六・一・仲五
「街路湫隘ニシテ塵穢坌集到ル處皆然ラサルハナシ」(黒田6)
K田清隆『漫游見聞録』(明治十八年)
いわば清国を体にたとえるなら、脳味噌から足の先まで、より正確を期すなら頭蓋骨の天辺から足の小指の先の先の小骨まで、いや全身の骨の髄までもが烟毒に侵された挙句の果てに1840年のアヘン戦争を招き寄せ、遂には“中国近現代の悲劇”の幕が開いてしまったわけだ。
かりに当時の中国で、「憂國ノ士時ニ禁烟ノ説」に従って「無知ノ人民」から「士人ノ道理ヲ解シ其酖毒ナルヲ知ル者」までがキレイさっぱりとアヘンと手を切り、個人的にも国家規模でも烟毒を排して真っ当な体に戻っていたら、おそらく清末以降のブザマな歴史を歩むことはなかっただろう。そうすれば孫文も?介石も、ましてや毛沢東も出る幕がなかっただろう・・・と思いたい。
だが、そうはならなかったところに、あるいは中国と中国人を理解するカギが隠されているのかもしれない。同時に、後の国家・社会・個人にまで及ぼした烟毒の凄まじさを考える時、単純に西欧列強や日本の罪と糾弾するばかりでは済まないような気がする。やはり自業自得の4文字を思い浮かべざるをえないのだ。
では、なぜ国家から個人のレベルまで骨絡みで烟毒に侵されてしまったのか。民族の体内に宿ったDNAというものを想定した時、やや飛躍しすぎるとも思うが、昨今の爆買いを連想してしまう。爆買いの民族であるなら、“爆吸い”をしたとしても何ら不思議ではなさそうだ。いや“爆吸い”の末裔だからこそ、爆買いに奔ると見るべきかもしれない。いや遡れば、文革にせよ50年代末の大躍進にせよ、その前年に起った反右派闘争にせよ、さらに遡れば毛沢東=共産党が権力を掌握するきっかけとなった土地改革にせよ、とにもかくにも挙国一致して、有無をいうことなく、誰かれなく、なりふり構わずの爆走、いや正確にいうなら“爆闘”だった。
たとえば地主の土地を強引に取り上げ農民に分け与えた土地改革にしても、四川省の地主の妻として実体験した福地いまが語った『私は中国の地主だった』(岩波書店 昭和29年)には、「(地主から取りあげた)土地の分配が終わると、家屋の分配をして、その結果無産階級は突然有産階級に変わって来ます。・・・衣裳箱、テーブル、椅子、鍋、釜、湯沸しから花瓶まで分配されて、大はしゃぎです。・・・家族の多い農民たちは急に大金持ちになりました。また農民以外の無産者も農民と同じ待遇でしたので、みんなは大喜びで毛主席を神様のようにあがめて毛主席と共産主義を信仰し始めました。たしかに一生涯祈っても与えられなかった財宝倉庫を、毛主席から頂いたわけで、他の宗教などきれいさっぱりと投げ出しました。神様なんてどこにいましょう。起きるにも寝るにも毛主席です」とある。
そう考えながら78年末にケ小平が開放政策に踏み切って以来の月日を振り返れば、カネに向って突進せよ(これを「向銭看」と表現したはず)の日々は、いいかえれば“爆稼ぎ”の日々だったはず。格差も、環境破壊も、山塞(パクリ)も・・・なにもかも全く眼中にはなかった。ひたすらカネ稼ぎに突っ走った。爆走であり、爆稼ぎである。
おそらく改革・開放政策における勝ち組にとっては、「神様なんてどこにいましょう。起きるにも寝るにも毛主席です」ならぬ、「起きるにも寝るにもケ小平サマサマ」であったに違いない。
ここもと然様である。懐かしの山河の懐に還り、自然に浸りながら陶淵明が呟いた「菊を采る東籬の下 悠然として南山を見る」などといったしんみりと落ち着いた心境には不似合いな、およそ静謐とは対極にある民族だということだけは確かだろう。《QED》